「理解してもらっている」と思えた時、意固地になる人は減る

今日はマネーセミナーとマスカット研修会です。



西伊豆の学校建設中止や、少し前の長野市の公園廃止の問題。少数の反対意見が重要視され、子どもたちの場所が取り上げられるということになっています。

物事を大人数で決める時、全員が賛成になるのは難しいでしょう。多数決が必ずしもいいとは思いませんが、賛成にしても反対にしても、攻撃性の高い人がいる方が強く、決定者が攻撃に弱く、全体を見ることよりも、攻撃を避ける傾向が高い気がしてなりません。

言ったもん勝ち、他人を責めたもん勝ちになっていませんか?
とても悪い方向に向かっている気がしてならないです。

「賛成」か「反対」かではなく、落としどころをとことん一緒に考えていく。それぞれの立場を理解しあいながら、できれば(あくまでも)納得できることを探していけるように・・・できないものかと。

学校や公園の話題は、子どもの居場所の問題があるので、どうしても反対の方が悪者になりやすいですが、個々の課題は個々としてはかなり大きな課題でしょう。私なら引っ越すなと思いましたが、引っ越すことも、ことが重要に感じる人と、私みたいに簡単に引っ越しできる人がいるでしょうから、同じことでも意味合いは全然違います。

でも「理解してもらっている」と思えた時、意固地になる人は減るのではないかなと。

「賛成」か「反対」や〇か×かみたいな論争を見ていると、戦国時代のことを考えます。結局人間とは戦いたい生き物なのかなと。特に男性。なんか楽しそうに戦っている。今は命は取られないので、戦国時代より安易かもしれないと。

コロナ禍で女性リーダーの国が評価されましたが、男女の性差を考え特性から見ると、女性が上に立つことも時代の変化に適応していくのかもしれません。戦うだけではなく、良いところに落とし込むという方向へ。

もっと女性が恐れずに意見を伝えていくことなのでしょう。